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アニ・パチェン 死去 −チベット刑務所に21年間投獄された尼僧戦士−

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2002年2月18日
(ニューヨークタイムズ、ダグラス・マーティン)

アニ・パチェン
(写真:インターナショナル・
キャンペーン・フォー・チベット)

尼僧の戦士として有名であったアニ・パチェンは2月2日、亡命先のインド、ダラムサラ の自宅で死亡した。68歳もしくは69歳であった。彼女は逮捕され、21年間囚われの身となるまでの間に、彼女のチベット人一族を中国の侵略者に対抗する武装反乱勢力として導いた尼僧戦士として知られていた。

SFTの執行部代表のジョン・ホッチェバールは、アニ・パチェンが胃の不調が原因で病気になり、その後心臓が不調になったと語った。又、彼は、アニ・パチェンが大勢の同世代のチベット人同様、彼女の誕生日を明確には知らなかったと説明した。彼女は1933年生まれであった。

アニ・パチェンは生後、パチェン・ドルマと名付けられたが、仏教尼となった後、アニ・パチェンとして知られるようになった。

彼女の名前を大まかに訳すと、非常に勇敢な尼僧という意味である。

その名前の適切さは、彼女が中国共産主義者達の戦車による侵略に対抗し、600人の騎馬による抵抗勢力を率いたことで証明されており、彼女を尊敬する人々が、彼女をチベットのジャンヌ・ダルクと呼ぶほどである。彼女は刑務所の中で殴打され、1週間の間手首から吊りさげられ、さらに1年間も鉄の足かせをはめられることに耐え抜いた。

「私を投獄したこの人々に対して恐ろしさを感じました」 と、彼女は言い、又、彼女を拷問した看守達に対しても、その残忍さは彼らの前世からのカルマの結果であるという仏教の信仰を抱き続けたと言って悲しみを表明した。

パチェン・ドルマは、東チベットにあるカム地方ゴンジョの指導者のただ一人の子供だった。彼女は僧侶や家族の愛情に囲まれて育った、と、エモリー大学でチベットを専門に研究している哲学の教授、ウィリアム・エーデルグラスは言っている。パチェン・ドルマは、精神的な生活に魅かれていた一方で、乗馬と射撃を習っていた。

パチェン・ドルマは17歳の時、彼女を他の一族の指導者と見合い結婚させるという計画を耳にした。彼女は遠く離れた寺院に逃亡し仏教尼となった。その結婚の計画を家族が考え直した後、彼女は家に帰り、指導者になるために父親から教わる勉強と、宗教的な勉強に彼女の時間を分割した。

1950年に侵略を開始した中国人達は、カム地方に堅実に進行してゆき、寺院を冒涜し、チベット人を殺害していった。1958年、一族が応戦することを決定したため、アニ・パチェンは戦争審議会で父親側に加担した。

同年の後に、アニ・パチェンの父親は病気になり死亡した。彼女は不承不承、闘争がチベットの宗教を守る唯一の道であるとして、仏教徒としての平和主義はその道をゆずらなければならないと決定した。

ゴンジョが侵略された時、彼女は家族とともに丘に逃げて戦いを導いた。彼女の部隊は中国軍護衛隊を待ち伏せし、彼らのキャンプを破壊したが、しだいに打ち負かされていった。1960年、彼女は母親や叔母、そして年老いた祖母を連れて徒歩でヒマラヤを越えて逃げようとしていた時に捕らえられた。彼女の21年間の投獄生活が始まった時、アニ・パチェンは21歳だった。

「私が捕えられた時、彼らは私の両手両足を縛りつけ、さかさまに吊るして尋問しました」彼女は仏教雑誌ののシャンバラ・サンに掲載された談話の中でこのように述べている。「彼らは絶え間なく私を殴打し続けました。私が気絶すると、彼らは私に水を浴びせ、さらに殴打しました。私は1年間、足かせをはめさせられました。私は地面の穴の中に入れられ、自分の汚物の中で暮らすように強制されました」

アニ・パチェンは、彼女の物語を「悲嘆の山:チベット尼僧戦士物語」という、アデレード・ドネリーと共著した自叙伝の中で述べている。(Doubleday,2000年出版)俳優で仏教徒のリチャード・ギアがその本の出版を援助し序文を書いている。

ロンドンのサンデー・タイムズはこの本について、「中国侵略の悪事がこのように感動的に、生き生きと表現されたものは珍しい」と評論で述べた。

アニ・パチェンは、彼女があまりにも精神的、肉体的に飢えていたため、彼女が魂の中に温かさを見つけた時は本当に嬉しかったと語っている。アニ・パチェンは、彼女の仏教徒としての信仰が彼女を生きながらえさせたと言っている。例えば、彼女は9ヶ月にわたる独房監禁の間に、10万回の五体投地を為し遂げることを決意した。

アニ・パチェンは1981年1月、刑務所から釈放された。家に戻る代わりに、彼女 はラサに留まり、幾つかの大きなデモに加わった。1988年に彼女は密告され、再逮捕の危険性を負ったため、国境へと逃亡した。その後、ダラムサラに定住し、彼女 が長い間謁見することを夢見てきた、亡命したダライ・ラマ法王の支持者達に加わった。彼女の母親、叔母、そして祖母は既に死亡しており、彼女以外誰一人生き残らなかった。

アニ・パチェンはチベットの真実を伝えるために世界中を旅行した。彼女の外見的な平静さが、彼女の若い時代を刑務所の中で失われたことに対する深い怒りを示している。

「私はまだ、悟りの境地、否定的な感情が皆無の状態には達していません」彼女はこう書いている。「完全な慈悲を持ちたいけれども、私は自分の人生の半分を刑務所で過ごしたので、まだ幾らかの怒りが残っています」